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2010年 06月 19日
鄙びた温泉の一軒宿に泊を求める。山間の田舎道に忽然と第二東名の高架橋が姿を現す。あたりは一面の水田風景。くねくねとした二車線道路を走っていると道端ににわかに新築の豪邸が一軒。植え込み、刈り込まれた庭の木々も涼やかに木の香りがしそうである。さてもこの辺りの山持ちもお家なのだろうか、それにしては杉も檜も見えない灌木林だが、と走ってゆくとまた豪邸である。果物でも出るのだろうか。工事中の高架橋をくぐり抜けてから十分ほどの間に三・四軒を目にした。
夕食のお給仕をしてくれた仲居さんに尋ねると、こともなげに「東名に土地が売れましてね」である。日本全土でどれほど繰り返された風景であろうか。そして経済財政学者のいう「乗数効果」はどれほどのものであろうか。一つ確かなのは、地域の村落にほとんど恩恵をもたらしていないことだ。国土を計画し、建設する、というのはそういうことなのだろう。しかし、そろそろ立ち止まって考えても良い時期ではないか。美しい国土の中に散在する共同体を縫って建設される道路工事が、補償金で建った個人の豪邸だけを残すのでは虚しくないか。 都市計画についても、同じようなことはいえる。名古屋の街は、戦災復興に当たって有名な百メートル道路を導入した。直後は必ずしも評判の良くなかった通りだが、いまやその恩恵に浴している人は多い。同時に、名古屋は市内の寺院にある墓地を全て郊外に集約して巨大な墓地団地のようなものを建設した。平和公園というのがそれだが、車で五分十分走っても、両側に見えるのは小高い丘の上までびっしり建っている墓石だけ、という珍しい風景が展開する。お盆の時期の車の大渋滞はともかくとして、野辺の送りの、祥月命日の墓参の、という詩情のようなものは消え失せた、というか、すっかり変貌した。 机の上の合理性が日々の暮らしの香りやリズムに優先する、という近代の傲慢はようやくそのツケが回ってきているように見える。モンスターペアレントが、やたらに学校で刃物を振り回すのと無縁でないように、かつての「憧れの」3LDKが巨大な高齢者居住地と化しているのも、インフォーマルなコミュニケーション機能軽視の結果だろう。向こう三軒両隣の付き合いの煩わしさから逃げ出して都市離民になった「近代人」たちが、高齢化と共に疎外感を強めている。もっと悲しいのは疎外感さえ感じる感受性がなくなっていることだ。老人ホームで夕食時に会話をすると苦情が出たり、テーブルに同席者がいるのを好まなかったり、はなはだしきはプール施設も人と一緒には使いたくない、というのが当たり前のことになりつつある。
by akirairiyama
| 2010-06-19 10:55
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