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2010年 10月 27日
今回イタリアを旅して、ヴェルディやポンキエッリの生家を訪れて感じたのだが、21世紀の今日でさえ寒村である。まして彼らが生を受けた時代はどんなだったろう、と思う。のみならず、どちらも決して豊かとは言えない、というよりむしろ貧しい家庭の子供だ。それが音楽教育を受けて、あれほどの大音楽家に育ったというのはどういう訳なのだろう。
その辺りを解説して頂いたのは旅のよきガイド役、永竹由幸先生。だから以下の所説は先生の受け売りで、別にしかるべき文献に当たって裏を取った訳ではないことは予めお断りしておく。先生によると、イタリア人というのは、優れた才能、特に音楽の才能については、みんなでよってたかって助ける、という気風があるという。ヴェルディの場合は町一番の素封家が自分の家に住まわせた上に娘と結婚までさせているのはよく知られているが、それには限らず、お金持ちも、そうでない人々も、皆で育て上げるという気風があるのだという。だから今も音楽の高等教育は優れたイタリア人の生徒には無料で、(その分は日本を始めとする外国人の生徒からロクに才能があろうがなかろうががっぽり授業料を取って埋め合わせるとか)才能を開花させる風土は健在なのだという。 日本はどうだろう。江戸から明治にかけて、藩主が、あるいは豪商が見所のある若者に目をかけて育てた、という話はあちこちに多い。それより昔には、赤と黒ではないが口減らしにお寺に出して、そこで才能が開花した、という逸話も多い。この場合も多くは目利きの高僧の存在が欠かせないのだが。要するに体制や組織は異才や傑出した才能を育むのには向いていない。そんな機能は「めきき」あるいは「民」による他はないということのようだ。それは別に困ったことでもなんでもない。公のシステムとか官僚組織というものは平均値を相手にする訳だし、それはそれでよい。問題はそれを補完する筈の機能に十分なスペースが与えられているかどうか、ということだろう。 オカミだけがすべてを取り仕切れば良い、という北朝鮮や中国のようなシステムを理想郷だと憧れた知識人もついこの間までは沢山いたが、そんな冗談のような話がどっこい尚健在なのが今の日本だ。一方では新しい富裕層がさっぱり新しい目の育成に興味がないというのも一つだが、他方では民のしなやかさを生かすべきシステムを官が取り仕切ろうとする。長い目で見れば日本を死に絶えさせるのにこれほど有効な手段はない。円高どころの騒ぎではないのだ。ところが、今度の公益法人制度のとんでもない改悪をこうした視点から捉える学者も、まして政治家も全く見当たらない。滅びへの途はけだし広々としているものと見える。
by akirairiyama
| 2010-10-27 11:36
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