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2009年 05月 17日
袖井林二郎氏の、日本人は「権力者と対決することなく一体化する」と、第二次大戦敗戦後のマッカーサー司令官に日本人から50万通とも言われる手紙が殺到した例などを引いた解説(5.16朝日夕刊4面)は面白かった。この民族特性(?)が、実はどの民族も大なり小なり持ち合わせているものなのか、それともわが国民がひときわその傾向が強いのかについては、他日他の碩学に意見を聞いてみなければ解らないが、この袖井氏の指摘する日本人の傾向は確かに省みて思い当たる節も多いし、さらにこの一体化の延長線上でとらえてみれば、少しでもそこから樹液を吸い取ろうとする寄生樹のようなふるまいも不思議でもなんでもない。まして道義的に許されないなどと興奮しても始まらないことがよく解る。
ここでいう対決する、というのは、何もまなじりを決して白鉢巻きで刀を抜き合わせる、という意味ではなく、距離を置いた他者として認識し、相手を観察する、差異を分析する、状態の改善に向けて説得する、必要なら打倒もする、と考えると気が楽になる。そうではない二項対立がどのような事態に導くかを考えてみればその違いは明らかだろう。権力者としての官僚機構(残念ながら日本では公僕としての官僚機構というのは絵空事のように思われる)と市民、としてこのコンテキストを読めば、なぜ日本で市民社会が生育する風土がいつのまにか消え失せてしまったかが明らかになる。権力者に対してそんな迂遠な処方を採用するよりは、うまい汁を吸う方策に集中する方が楽だし、居心地がよいからだ。 戦争直後の異常事態は別にして、権力者なるものがその基盤を市民に持たざるを得ない、という事実に思い当たればその感は一層深くなるだろう。(ついでにいえば、そうした異常事態にあってさえ世界の各地で「対決」の姿勢が見られるのも周知の通りだ。)権力者を利用しよう、意のままに操ろうというスタンスも選択肢の一つではある。しかし、これは結局権力に絡めとられるか、逆に利用されることに成り果てるのは、世の「政商」あるいは「御用学者」を見ていれば明らかだ。画一的な価値観の中で、能率と効率だけが問われるシステムにあっては、それなりの優秀さを示した官僚機構が、前提条件の激変に遭遇して、全くの無力・非力をさらけだしつつもなお「権力」にしがみついている今、われわれも権力と穏やかに対立する方法を考えてみたいものだ。その方法が既に目の前に存在していればなおさらのことではないか。
by akirairiyama
| 2009-05-17 16:22
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