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2007年 12月 26日
CSR(Corporate Social Responsibility企業の社会的責任)が花盛りである。企業は金儲けだけしていれば良いというものではない。応分の利益を社会に還元すべきだ。いや利益の部分的社会還元などという生温いものではない。持続可能な社会発展のために企業たるもの貢献して当然である。そもそも社会公共の利益と両立する限りにおいて企業は操業を認められているに過ぎないのだから、CSR費用は当然のコストと考えるべきだ。などなど、留まるところを知らない。それはそれで結構な話だろう。CSR部門が雇用を創出したり、アカデミアを初めこれで生業をたてる人も出現する。まさにバズワードであり、CSRならでは夜も日も、という観なしとしない。
どんな議論に就いても言えるのだが、懸念の声とか反対論、あるいは「ちょっと待てよ」「本当かな」みたいな声が全く聞こえないで、それ行けどんどん一辺倒というのは、いささか不健康だ。CSRに対する反対の声は存在しない訳ではない。いまではCSR信奉者から化石扱いされているノーベル経済学賞受賞者ミルトン・フリードマンは経営者がCSRなどにうつつを抜かすのは分をわきまえない所行であるのみならず、株主に対する背信行為であると言い切っている。最近では、デイビッド・ヘンダーソンの”Misguided Virtue”(誤り導かれた美徳、とでも訳すのかな)がその一つで、これはフリードマンほどの経済学者ではないこともあって、さして名著とも傑作とも思われないが、とりあえずいくつかの論点は抑えている。これを翻訳して「CSRは資本主義を滅ぼす」という刺激的なタイトルを付け、いくつかの出版社に持ち込んでみたが、全て断られてしまった。時流に乗っていないのでしょうね。 彼の言い分の細部を紹介するつもりはないが、幾つかの論点はかなり納得できるもののように思われる。 先ずその一つは、CSRには企業の反社会的行為を制限し、規制する、という機能がある。これが過度の官僚統制に化ける可能性は常に存在する。つまり、反社会的というハードルが定義によって自由自在に変化する恐れがある、ということだ。のみならず、過度の様式化、ルール化(トリプル・ボトムラインはその一例)によって繁文縟礼の官僚主義に堕する虞れについてはいま少し敏感であってよい。道徳的正義感が官僚主義と野合する怖さである。歯止めが必要になるということだ。 さらに、途上国労働者の労働条件改善という善意の下で、最低賃金制、労働基準の厳格化などを通じて結果的に当該国の雇用を減少させ、あるいは経済衰退を招く可能性がある。のみならずそうした事態が発生した実例も多い。CSRの一環としてダウンストリームの労働条件に目を光らすのは結構だが、望ましからざる結果に対する対策抜きに行うのでは片手落ちどころか、結果はかえって悲惨になる。 CSRのコア・コンセプトの一つに、ブルントラント以来おなじみの「持続可能な」開発という考えがある。子孫の可能性を奪ってはいけないのなら石油は一滴も使えないだろうし、何よりもこの曖昧な概念を、「どれ位の生活レベルで」「どれほどの数の人が」「どれ位の期間」という三要素を規定しないで使うのは知的怠慢であるか、あるいは知的自殺行為に過ぎない、と喝破したこれまたノーベル賞受賞者ノーマン・ボローグ博士の言葉などが思い出される。 正反合ではないが、異なってある意見の存在は議論を、そして社会を豊かにする。モラルの旗を振りかざして反論を許さない議論のあり方が存在するとすれば、住みにくい世しか作らない。日本がそんな経験をしたのはそんな昔の事ではない。 #
by akirairiyama
| 2007-12-26 18:14
2007年 12月 23日
病院で受けた投薬、あるいは処置によって、重大な病気にかからされた、生死に関わる病であるのみならず、一生それを背負って生きて行かなければならない。怒り、憤り、やるせなさ、悲しみ、いかばかりのものかと思う。自分一身のことについて償いを求める。それだけだって、納得して折り合いをつけるのは大変なことだと思う。それを、自分と同じ立場になるであろう人、同じ思いに苦しむであろう人全てが救済されない限り自分だけではあくまで納得しない。崇高とか、気高いとか、人道的だとか言う表現を超えて、人間とはここまで志高くありうるものかと感嘆する。今回の薬害問題について以下に若干のコメントを試みるが、基本的にこの認識は変わらない。いささかなりとも被害者の不快感を誘う部分があるとすれば、それは全くの本意ではないことを予め断っておきたい。
第一に、ある薬の製造・使用を許可する。その判断行為に過失があったか否か、という問題が問われる。様々な検証の過程を通じて、当然知り得べきであったこと、知り得なかったことは明らかになろう。過失があれば責めを負うのは当然、ということになるし、過失がなければ、現実に被害が発生していても、被害者はお気の毒、運が悪かったね、ということになる。これに対して、(本人の落ち度によらずして)現実に発生した被害は救済しよう、あるいはすべきだ、という立場がある。誰が救済するかについては、無過失責任の法理を適用して加害者に責めを帰するほか、保険制度を設定してそうした事態に対応することも可能である(予め用意されている必要はあるが)。過失の有無の問題は司法の判断であり、後者については立法の問題である。薬害問題というのはこの両者の谷間に当たる部分で発生している。つまり、ある薬の有害性が、科学的な知見という見地から、ある時点までは解らなかった、知り得なかったと仮定しよう。その時点以前の判断に過失を認めることは出来まい。要するにその時点以前に製造使用されていた薬によって発生した被害に対して、国あるいは行政当局は法的に責任を問われることはない。しかし、現に被害は発生している。これを救済しなくてよいのか。運が悪かったですね、ですまされるのか、というのが問題の本質である。 仮に救済すべきだという途を選ぶにしても、そこで必要となる資金が税金であってみれば、支出する為の何らかの根拠が必要になる。福田総理の、まして舛添大臣の裁量的支出権限の枠内だとはとても考えられないからだ。となると、お役所、すなわちお役人の支出根拠についての根拠、あるいは法解釈の立案が必要になる。 ところが第二に、役人というものの本質は、「権威づくの、杓子定規の、上意下達の、ことなかれ主義の、要領のいい、人間味のない考え方」[半藤]、あるいは「先例踏襲、繁文縟礼、瑣末主義、事大主義、責任回避、尊大横柄」[本田])であることは周知の事実である。簡単に言ってしまえば自らの判断に責任を取らされたくないし、取らなくても良いしかけを巧妙に張り巡らせる。そうでもなければ何兆円という年金資金をグリーンピアなどのドブに棄てて、誰一人責めを負わないなどということは考えられまい。良い悪いの話ではなく、制度設計が万国共通にそうなっているというだけのことだ。だから後世に名を残す今回のような事態に「責任を取る」判断が出てくる筈もない。行政各部を束ねる大臣、すなわち政治の介入が必要になってくるのはこの場面だ。今回の議員立法というのは一つのモデルだろう。願わくば将来に備えた保険制度も組み込まれたものであることを期待する。 #
by akirairiyama
| 2007-12-23 15:49
2007年 12月 19日
駅のホームでは「電車が来る」「白線まで下がれ」「入り口に固まらず中の方に進め」「駆け込み乗車は危険だ」などなどひっきりなしに騒がしい。新幹線のホームに人を出迎えて五分もいれば頭が痛くなること請け合いというほどのものである。片時も休まずなにかをしゃべっていることがサービスであると錯覚しているかのごとし。「蟻走る走らねば世の終わりらし」などという有名な一句を思い出したりするくらいだ。うがった見方をする人によれば、あれをやめさせたらその分だけ雇用が減少するから労働組合が反対するのではないか、とか。まさか、ね。
量販店の前では行き交う人に向かって客引きの喧しさ。街宣車の流すけたたましい軍歌。住宅地を傍若無人に走る「電子製品を無料でお引き取り致します。」 枚挙に暇のないこの種災厄の極め付きは音楽会。ひと時の至福の時を求めて、安くもない入場料を払って会場に入るや、「プログラムはこちら」「軽食喫茶はあちら」「本日プログラムのCD販売中」さながらに縁日の呼び込みである。 かつて日本人は竹の葉の音に耳を傾け、松の葉のざわめきを愛した。一体その感性はどこにいっていしまったのだろうか、と思う。もちろんある日突然にメタボになる訳ではない。徐々に、徐々に感性が浸食されたというのが正解だろう。思い起こせば石原現都知事が環境庁長官だった頃、ゴミ収集車のオルゴール音に異議を唱えた。その時、マスコミを筆頭に世論なるものは嘲笑をもって応えた。もっと大事なことがあるだろうという訳だ。われわれはいまその不明を恥じなければなるまい。 さて、どうしましょうか。遅まきながら景観保護についてはいささかの進歩が見られている。騒音についても多少の進歩なしとはしないが、官僚統制、国の干与の増大の方向でしか解決できないというのがこれまた悩みのタネだ。 市場原理のしからしむる所、うるさい業者には廃品を出さない、買わない、良くないよ、と声を上げる、といった迂遠な方法しかないのかもしれない。でも、もともと民主主義は迂遠な方法論を好んだのではないか。 #
by akirairiyama
| 2007-12-19 00:46
2007年 12月 14日
官僚の仕事はカネを使うことだ。といえば皮肉にも聞こえようがそうではない。そもそも何の為にいくら国民から税金を徴収するかの素案を策定し、決まった後は徴収した税金をいかに予算として配分消費するかが官僚の本分である。そのカネでゴルフに行ったり、先輩の天下り先を作る、はては馬鹿な無駄遣いをする、というのは一種枝葉末節の話で、そもそもカネを使う仕組み、使える仕組みをそのままにしておいて、官僚にカネを使うな、というのは、雄鶏に時を告げてはいけない、というようなもので、出来っこないのみならず、そんな幻想を振りまいて事態が一歩前進したかのように思うのは、関係者全員にとって迷惑な話であり、フラストレーションがたまるだけの話だ。だから、その仕組みを変革する、あるいは最近はやらないが「ぶっこわす」のは政治家の仕事である。それが機能しないのは、カネのかかる代議士稼業に公式・非公式、合法・非合法に官僚が利権を斡旋し、あるいは政治家が実力で官僚を駆使して獲得し、持ちつ持たれつの関係が成立しているからに他ならない。だから政治家になるのに、政治家であり続ける為に、なんでそんなにカネがかかるのか、を明らかにしない限り、官僚の無駄遣い体質は愚か、政官の癒着も決して改まりはしない。それを忘れてか、故意にか、領収書が一円だ十円だ、と騒いでいるのは、目くらましをしているとしか考えられない。念のために言っておけば、官僚がカネを使いたがる、自らの縄張りを広げたがる、のは悪いことではない。そうでもなければ、明らかに有限な国家予算を、古典芸能保存、素粒子研究、老人介護、環境保全、などなどの目的にどうやって配分できるだろうか。チェック・アンド・バランスとは良く言ったもので、それが機能しないとひどいことになる。今の日本はかなりひどいところまで来ている、という自覚がないと、本当にひどいことになるのだが。
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by akirairiyama
| 2007-12-14 23:45
2007年 12月 14日
出るを制して入るを計る、というのは財布を預かるもののイロハではないか。出るところが出っぱなし。(塩爺いわく「母屋が粥をすすっているのに離れがすきやき」言い得て妙)それで増税だ消費税アップだは沙汰の限りだ。だがらまず経費削減から入ろうというと、こともあろうに社会福祉給付から、生活保護減額という。既得権、つまり自分の痛みにはチョー敏感だが民の痛みにはチョー鈍感、というのは官僚機構の常とはいえこんな怪物役人とそれに群れる利権政治家をわれわれは永年にわたって養成してきたのだ。削らねばならぬ経費は削らねばならないだろう。でもそれよりまっさきにぶったぎるべきなのはゴルフ接待の為の水増し請求であり、OBののうのうとした天下りの為の人件費(税金である)であり、役にも立たない公共投資であり、何よりも漫然と費消されている国家予算だ。民主党が今国会を「むだづかい追放国会」にするといったときは希望を持ったが、どうやら慣れぬ検事ごっこ、探偵ごっこの方が性に合っていらっしゃるようだ。ケタが違う、そんなちりも積もれば、式の議論はいやしくも国家予算には通用しない、とはいわせない。少なく見てもその種の無駄遣いは特別会計を含めれば数兆円に上ることは明白だ。それを「埋蔵金はない」とか、お役人のいうことは正しい、とかいう自民党の領袖には愛想を尽かしてよいのでは。
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by akirairiyama
| 2007-12-14 04:04
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