カテゴリ
以前の記事
2012年 06月 2012年 05月 2012年 02月 2012年 01月 2011年 12月 2011年 11月 2011年 10月 2011年 09月 2011年 08月 2011年 07月 2011年 06月 2011年 05月 2011年 04月 2011年 03月 2011年 02月 2011年 01月 2010年 12月 2010年 11月 2010年 10月 2010年 09月 2010年 08月 2010年 07月 2010年 06月 2010年 05月 2010年 04月 2010年 03月 2010年 02月 2010年 01月 2009年 12月 2009年 11月 2009年 10月 2009年 09月 2009年 08月 2009年 07月 2009年 06月 2009年 05月 2009年 04月 2009年 03月 2009年 02月 2009年 01月 2008年 12月 2008年 11月 2008年 10月 2008年 09月 2008年 08月 2008年 07月 2008年 06月 2008年 05月 2008年 04月 2008年 03月 2008年 02月 2008年 01月 2007年 12月 フォロー中のブログ
メモ帳
最新のトラックバック
ライフログ
検索
タグ
その他のジャンル
ファン
記事ランキング
ブログジャンル
画像一覧
|
2012年 05月 26日
食道ガンが始めて見つかったのは2003年だから、発病以来10年は生きていることになる。というより事態が深刻になったのは昨年の4月に肝臓に多発生の転移が見つかってからで、手術だ放射線だというのはもう適用出来ない。抗ガン剤治療あるのみだ、という医師の見立てで、1ヶ月おきくらいに一週間づつ入院。計6回の抗ガン剤の点滴を受けるようになってからだ。抗ガン剤というのはガン細胞だけではなく健全な細胞にも破壊力を行使してくれる。これが人のいう副作用というやつで、手足のしびれは言うに及ばず、聴力ががた落ちになったり、歩行もママならぬ状態を惹起したり、それでもそれなりに肝臓のガンはコントロールされていてくれる、つまりやたらに大きくならないでいてくれる、というのだから、命を取りますか、髪の毛が抜けるのをとりますかみたいな不本意な選択もやむを得ない、としたものではあった。ところが初期の放射線治療の副作用で肺嚢と心嚢に水がたまり、狭心症を起こして救急車で担ぎ込まれたのが治療開始後2年くらいの頃で、以来循環器内科のお世話にもなることになる。あげくのはてに腎機能ががた落ち(これも副作用)であるから、こんな身体機能ではこれ以上の抗ガン剤治療は出来ない、と宣告されると、後はなんのことはないガン細胞が五体を荒らすのを黙って見ている他はない、というに等しい状態とは相成った。
それではいかにも口惜しいから、体内ガン細胞を焼灼するというラジオ波治療、それに比較的副作用の少ない抗ガン剤の併用で何とか延命を図ってガンの拡大をコントロール出来ないか、というのが目下の最大関心事なのだが、「もうそろそろ緩和医療、つまりターミナルケヤーの準備をしておいた方が良いですね」みたいなことを主治医はけろりとのたもうし、お前の余命は月単位だよ、と宣言されているようで心穏やかならざる事ひとかどではない。 その限りにおいては、ついこの間まで自分が当たり前のこととして考えていたしたいこと、できそうなことを考えるタイムスパンが思いの外に縮小した感じがないではない。もっとも70歳を過ぎた老骨が、仮に元気であったにしても第一線に躍り出て刀を振り回されでもしたら、これははた迷惑だろうし、世のため人のためになるとも思われない。次の時代を担ってくれる次の世代の仕事がしやすいように、草むしりや球拾いのようなことをすることこそ我らの世代のありようだ、と悟ったりするのだから、自我の強さで人生を過ごしてきた様なところのある筆者にしては、ガンの罹患はまんざら悪いことばかりではないのかもしれない。 そこで気になることはと言えば、正直明るいニュースを探しあぐねたりもするので、諸事万端これ悩ましき限りとも謂うべき状態だが、やはり一番の問題は日本の政治経済の状況、というより本来「みんな」にとって重要であるべき様々な問題状況に対して、「自分の手で」なにができるか、ではなく、「政府は何をしている」「お役所はどこを見ているのだ」「企業のしかるべき責任が果たされていない」といった、あなたまかせ、顧みて他を謂うという態度の蔓延だろう。これでは政官財のトライアングルを嘆いたりも出来ないし、何より明日に向けての積極的な対応は出てこない。市民がみんなの手で社会を良くすると言うと、そんなユネスコ村の様な理想郷を、と一笑に付される向きも少なくないだろうが、ことはそれほど夢物語ではない。 強制的に徴収される税金を原資とした政府の再配分機能、限界利益極大化を動機とする飽くなき企業の生産活動、それらが近代社会にとって必須なものであることは当然として、それ以外の活動、つまり利益動機に基づかない、もっと具体的に謂うと利益動機に満ち満ちていても、上がった利益を関係者で配分してしまうのが最終目的ではなく、それを社会のために、より良き公共のために再投資してゆく、という活動が今よりも多くの支持者を得ることは充分に期待出来るように思う。それがどうした、それでどうなるについてはまた回を改めることにする。 #
by akirairiyama
| 2012-05-26 02:11
2012年 02月 24日
もう間もなく1年が経とうとしているのに、仮設住宅で暖房器具が使えなかったり、すきま風に悩まされたり、放射能汚染のふるさとに何時帰れるのか見当さえつかなかったり、起業資金が予算措置が終わっているものの消化率がお役所仕事で3割しか消化されていなかったり、何よりもあの瓦礫の処分のメドさえ経っていなかったり、と数え上げただけで憂鬱になるこんな事態をよそに国会の論戦がいかに虚しく響くか。いっそ議員全員東北に移住して対策を講じてみてはどうかと提案したくなったりもしようというものだ。
どうしてこんなことになったのか、どうすれば少しはマシな事態にすることが出来るのか。大阪の橋下さんではないが、統治が可能な機構にするのにはどうしたら良いのか。もちろん万能薬は存在しないのを承知の上で言えば、多少の無駄や懸念は捨て置いて、一切の予算支出の権限を地方自治体レベルに落とすことを真剣に考えて良い時期に来ているのではないか。お役所の縄張り意識、無失点主義に伴うことなかれ、そうした「総論」的ヒョーロンはテレビのチャンネルさえまわせば芸能人から学者に至るまで、したり顔でおっしゃっていて、もう耳にタコができている。 今日のこの事態を異常だと思うか、民主主義に伴う必要悪の一端に過ぎないと観念するか、認識は分かれるのだろうが、異常事態ならば異常事態なりの立法措置で対応する他はあるまい。忍耐強く、従順な国民性を良いことにしてこれほどの無為無策が幅を利かせていると言うのは全く許し難いことだともう少し我々は怒らねばなるまい。既存政党の領袖クラスが全く信を措くに値しないことが明らかになった今日、東北地方の市町村長、知事が「言い出しっぺ」になって緊急立法の必要性を要求してはどうだろう。 その動きの先導を本来ならば「みんなの党」あたりに執ってほしいところだが、コペルニクス的転回はさすがの渡辺さんにも荷が重いのかもしれない。余りと言えば余りの現状に筆者の議論もいささか冷静さを欠いているかもしれないが、能天気に刑事被告人が政界再編を説くのを大きく扱うマスコミや、議員定数削減と選挙制度の抜本的改革の連動には必ずしも同意している訳ではない、などと世迷い言をのたまう野党党首、一国の宰相は危急の事態に陥った国民に何をすべきなのか、軽重がまるで判断出来ていない与党。右を向いても左を向いてもこの始末では、横町のご隠居たるものヒステリーのまねごとくらいは声高に叫んでみる他はないではないか。 #
by akirairiyama
| 2012-02-24 18:01
2012年 02月 19日
東シナ海のガス田開発を巡っては、境界線それ自体についての意見の相違、さらには合意に至る前の一方的開発、さらには日本側資源の吸出等々について、日本側は不十分とはいえ、抗議の声は挙げている。しかし、肝心要の資源開発それ自体についてはほとんど手つかずの状態がずっと続いているのはどうしてだろう。両者協議が整うまでは開発を控えると言う紳士協定を守っている、と言う見方もあろうが、日本領海内で日本の資源を開発するのを(いくら海底では中国資源と繋がっているとはいえ)手控える必要がどこにあるのか。何の実力行使もしないで犬の遠吠えよろしく抗議一辺倒ではますます甘く見られても仕方がないだろう。
武断派であるまいし、尖閣諸島に自衛隊基地を建設しろとか、肩に力を入れて実力行使を奨励しているのでもなんでもない。出来ること、やることをしないで空理空論の美辞麗句で事態が変わるほど国際問題は甘くないと言う事実を指摘しているに過ぎない。ことは中国との間に留まらず、北朝鮮の拉致日本人問題にしても、調査依頼を無視されてなんら新機軸を打ち出さないまま、口を開けば抗議抗議で一体何が変わると言うのだろう。中国に関していえば、なりふり構わぬ既成事実作りを外交の基本だと心得ているかのごとき国を相手にしていることを忘れてはなるまい。のみならず、その強烈なエゴの固まりとも言うべき外交姿勢に対して、「中国に学ぶ」(Learning from China.)などと米国の論客が述べるに至っている事実を見過ごしてはならない。 この米国の論客と言うのはワシントンポストのユージン・ロビンソンで、2月17日付けの同紙(電子版)の論稿の趣旨は、「通貨操作、知的所有権の海賊行為、シリアのアサド政権制裁に対する国連安保理における拒否権発動など許し難い態度はあるにもせよ」と言う但し書き付きではあるが、進むべき路線を見定めて猪突猛進する中国の姿勢には米国も学ぶべき点が多いとする。裏返して言えば、日本の外交が追求しているもの(そんなものが存在するとしての話だが)は一体何なのか、ということにもなろう。友愛だ、東アジア共同体だという気恥ずかしい看板は流石に最近下ろしているようだが、国を挙げて追求しているのは一体なんなのか等と言う淋しい問いかけを今更しなくてはならないのはどうしたことか。 資源問題に本気なら、沿岸地域のメタン・ハイドレートなどに逃げ場を求めず、堂々と東シナ海でガスなり石油なりの採掘を始めるべきではないか。それは決して乱を好むものでもなければ、不要の摩擦を挑発するものでもない。国権と国益に対しては一歩も譲らないと言う意思表示の行動に過ぎない。 #
by akirairiyama
| 2012-02-19 09:23
2012年 02月 18日
寒さをを推してN響定期はノセダのバトンで先ずマツエフのチャイコフスキーのPコンチェルト1番。今更マツエフとおっしゃる向きもあろうが、筆者は始めて聴いた。先ず何よりもそのダイナミズムに圧倒された。190センチのスマートな長身から、派手なボディアクションでの演奏には、その振り下ろすタッチでピアノが毀れるんじゃないかと思わせるくらいの迫力である。それも技巧や荒技のこれ見よがしではなく、彼一流に歌っている、という感じ。思えば最近のピアニストにはマツエフ流の超絶技巧(あるいはタッチ)でばりばり弾きまくる、という人が増えている様な気がする。コンクールでこんな人の後にでも弾かされた日にはたまったものではないだろうな、と妙な同情をしたりもすることだった。しかし、後味は爽快さだけではないところが彼の彼たる所以なのだろう。気持ちよい演奏だった。
もう一曲はカセルラという(筆者は)聞いたことのない作曲家の交響曲2番。マーラーの影響の強い賑やかな大曲だが、さて名曲かと言うことになるとどんなものだろう。こうした公演の選曲と言うのも、いつも運命だ悲愴だと言う訳にもゆかないだろうから、ときには虫干しの様な曲を披露するというのも一つの機能かもしれない。ただこの曲に限って言えば、ほとんど正統派の西部劇を眼前に彷彿とさせるものがあった。早脚での騎行あり、大平原に沈む夕日あり、決闘前の不気味な鐘の音あり、恋人同士の見つめあう目もあり、対決する荒くれ男あり。ジョン・フォードの映画か、OK牧場かツームストーンの決闘のBGMにしたらどんなに素敵だろうと思って聞いていた。 最近のTVコマーシャルが訳も解らずクラシックを入れたがる(幸福な男女二人のバックにアヴェ・マリア。あるいはヴェニスのゴンドラに何と新世界!)のも考えものだが、知られざるクラシックの中には存外な使われかたを待っている曲も結構多いのではないかと思ったりもする。これほどITが発達しているのだから、音源探しも一工夫あっても良いのではなかろうか。かつてバロックの名曲がフランス映画のBGMに使われて大ブレークしたことを記憶していらっしゃる方も多いだろう。まあ、みんなで揃って同じ振り付けで踊りながら斉唱で歌う、というのがヒットの本流であってみれば、ちと無理な相談かもはしれないが。 #
by akirairiyama
| 2012-02-18 00:18
2012年 02月 15日
推理小説にも警官は犯人にしないとか、いくつかの約束事があって、アガサ・クリスティがアクロイド殺しで「私が犯人です」をやった時にはアンフェアだ、いやルールのうちだと物議を醸したものだ。昨今はとんとそんなお約束はどこかにいってしまったらしく、TVの警察ものなんぞは警官を犯人にしてはばからない。一つにはオカミの信用がかくも地に落ちた、ということもあろうが、決して観ていて後味の良いものではない。
震災から一年も経とうと言うのに、いまだに打つべき手が打たれていなかったり、それはまだしも、やりもしないことをやりましたと大本営発表があるのは東京電力に限ったことではない。かくしてなしくずしにオカミの言うことは信用出来ないと言うのが当たり前になるとすれば、計画的にやっているのならよほどの知能犯だし、無智でやっているのなら本気で役人の総取り替えでも考えなくてはなるまい。 ことがかほどに重篤な域に達しているというのに、何とお考えになることが休眠口座の800億をどうしようと言う話だと言うから、呆れるのを通り越して寂しくなろうと言うものだ。いくら身の丈相応の知恵しか出ないからと言って、お粗末すぎはしませんか。習近平とオバマが壮大な狐と狸を演じているのに比して、スケールの違いと言うか、矮小さと言うか、ここは遠吠えでも良いから一言欲しかったところではありませんか。 そんな中でひとり元気が良かった橋下さんが、船中八策を打ち上げたあたりからマスコミが俄に冷ややかになったと見るのはひが目だろうか。革命的言動は困るので、あくまでもマスコミが料理しやすい従来の記者クラブべったりの体制擁護派でなくては提灯持ちも致しませんと言うことなら、これは由々しき事態だと言うべきだろう。強行突破で国民の支持を頼りにするのは天晴だが、ここは折角すり寄る「みんなの党」を邪険にするだけが能でもあるまいと思われるのだが。 とかくシニカルになるのが訳知りめいて世の耳目を傾けさせるようになったのでは非生産的な潮流だと言うべきだろう。そうでなくても比例代表で訳の解らないのが沢山政治家になり過ぎた。5減は当然として比例定数も断固削減すべきだろう。もっと民主主義的熟議の方法論に習熟するまでは、むしろ対決を尖鋭化することの方がオカミの信を取り戻す早道のように思われるからだ。 #
by akirairiyama
| 2012-02-15 23:36
|
ファン申請 |
||