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2008年 03月 26日
3月24・5日の二日間、外務省と国連大学の共催で「東京平和構築シンポジウム」が開かれた。昨年発足した(日本を含む)アジア人を対象とした平和構築のための民間要員の養成講座、所謂「寺子屋」の一期生が、広島大学での座学と、世界各地における現地研修を終えたのを記念して開催されたものだ。いくつかの優れたプレゼンテーションがあったが、中でも二日目の第五セッションにおけるASEAN事務局長スリン・ピッツアンの基調演説は特に印象的だったので紹介しておきたい。
スリンは、過去の無制限な国家主権概念(sovereignty)の有効性に疑問を呈する。それに拘泥して発生した悲劇に言及し、不可侵の聖域ではなく、人道や人々の幸福との共存を現代における必須の条件とする。当然の論理的帰結として平和構築は最大の優先順位を付与される。しかしそれと同時に、紛争後の地域に対する西欧諸国の「介入の権利」という議論を強く牽制し、むしろ平和構築は「人類としての義務」という見地から行われるべきだ、という。それこそが西欧とはひと味違ったアジアの平和構築哲学だ、といわんばかりである。これだけ聞いたのでは、単なる言葉の遊びのようにも聞こえようが、実はそうではない。 平和構築というのは、いうまでもなく紛争後の和平促進から治安確保、さらには人道支援、復興開発までの一連の連続した(seamless)動きを指す。それは日本外交の基調にある「人間の安全保障(human security)」という観念と表裏一体のものだ。ちなみに、「人間の安全保障」が、なぜこれまでの安全保障概念と異なるかというと、国の存在を前提とした従来のそれと異なり、直接に(国の構成員である)市民を対象とする安全の保障だ、というところにある。つまり、最終受益者である市民に対して、援助者が直接に向き合うという姿勢が強く打ち出されている。 これが国家主権と微妙なところで抵触する可能性があることは見易いだろう。さらに、「人間の安全保障」には、「恐怖(fear)からの自由」と「欠乏(wants)からの自由」という二つの構成要素があり、前者は大量虐殺(genocide)はもちろん、圧政や人権抑圧といった(非民主的・強権的)体制による民衆への加害行為が念頭にある。とすれば、国家主権を否定する介入の権利(それが武力であれ、経済制裁であれ)を声高に主張する立場と結びつき易いことになる。 他方ASEANの内政不介入原則は発足当初からの理念であり、ミャンマーのようなケースについても、西欧からの圧力を断固はね返し続けてきたのはご承知の通りだ。こうした流れの中でスリンの演説を聴くと、人道援助中心の「欠乏からの自由」に軸足を置くアジアのあり方というものを改めて確認することになる。さらに、世界中に展開するPKOの武装派遣員の大半はアジア諸国からであり、その目的の多くは派遣国の外貨収入確保にあることも公然の秘密である、というコンテクストも念頭に置くと、スリンさん、なかなかやるね、という感じなのだ。微笑を絶やさず、言うべきことは言ってのける。「顔の見える」援助だ、その実績だをあげつらうよりは高度の技術のようにお見受けした。
by akirairiyama
| 2008-03-26 00:05
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