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2011年 12月 26日
東日本大震災は発生から9ヶ月余りが経過したというのに、まだ思わしい復興への足どりというには遠い。のみならず原子力発電所事故の後遺症に至っては、その展望はほとんど五里霧中という有様だ。被害者を含む多くの国民が示した信じられないほどの粘り強さと連帯意識、消防、警察、自衛隊などが示した英雄的とも言える活動の数々、それに比べていかにも遅々として心こもらない政治の対応が白日の下に曝された。さらに問題なのは、対応の遅れを糊塗し、あまつさえ正当化しようとする無駄なエネルギーが消費され、肝心の対策に向けられる分がそれだけ減ったことだろう。
天災でさえも焼け太り、自らの利権拡大の好機と捉え浅ましくツバ付けに狂奔する人々は、もうこれは確信犯とも言うべき輩だから、論ずるだけ時間の無駄というものだろう。その手綱を引き締めるどころか、乗せられて振り回される政治家のだらしなさのほうこそ指摘されるべきだろう。とはいえ、ことは政治家に限ったことではなく、国民の善意の象徴とも言うべき義捐金、救援物資がいまだに罹災者の手に届かず、どこかに眠っている、という事実もある。組織とかメカニズムというものは、ある一定の規模を超えると柔軟な対応が出来なくなる、という典型例かもしれない。 本来ならば、「官」の限りない自己増殖に歯止めをかけ、巨大化し非人間的になりがちな組織に「人間らしさ」をもたらすのはコミュニティであり、民間の非営利組織だった筈だ。この要素を抜きにしてひたすらに効率化、合目的性の追求に走れば、世に謂う人間疎外が起こるのはほとんど確実だと言って良い。八百屋さんや魚屋さんがスーパーやコンビニに駆逐され、横町のご隠居もさっぱり出番がない。民間の非営利組織に至っては、公益法人制度改悪という官僚組織の策謀のまえにほぼ息の根を止められつつある。 一年の懐古がこんなトーンのものにならざるを得ないのはとても残念だが、強いて明るい要素を見出すとすれば、それはわれわれ日本人の持つ勤勉さと優しさではないかと思う。一見迂遠にみえるこうした美徳のバランサーが、人間の浅ましさや貪欲さを包み込んでくれることを期待するのこそ王道ではないかと考えるからだ。妙に抹香臭いところに最後は落ちたが、即効的な対策が期待出来る筈もないとすれば、息永く芽生えを育ててゆく他はあるまい。読者の皆様にとってきたるべき歳が素晴らしいものでありますように。しばらくお休みして、また新年にお目にかかります。 #
by akirairiyama
| 2011-12-26 10:45
2011年 12月 22日
「友愛」とか「東アジア共同体」さらには「最低不幸社会」などと、内容が判然としない大風呂敷あるいはキャッチフレーズの類いを口走ることの多かった前任総理お二人とは異なり、一体何がなさりたいのか、大きな構図のようなものがほとんど見えない、というのが特徴の野田政権ではある。その反面、消費税は上げる、公共投資はなし崩しにもとに戻す、痛みを伴う改革は後回し、と「位置エネルギー」の体現については全くぶれないで着実に歩を進める。この政権運営が意図的なものであるのか、それとも抗し難い「空気」あるいは「流れ」の様なもののなせる業なのか。あるいは単に周りの官僚諸氏のいうがままの舵取りなのか。
ひとつはっきりしていることは、一旦は決別を宣言した既得権益構造への限りなき回帰が明らかだ、という点だろう。それが野田首相自身の意図であり選択であるか否かは大した問題ではない。というのも、官僚機構が既得権益擁護、守旧の砦と化してしまっている現在、政治指導者が進んでそれの旗ふり役を勤めているのか、心ならずもそうする羽目になってしまったのか、はどうでもよいからだ。問題は政治指導者の意図がどこにあるか、あったかではなく、あれほどの期待と支持を集めた政治主導、脱官僚、脱既得権益路線が、その実現に当たって、信じ難いほど幼稚な解釈に基づいてこれまた考えられないほどの愚かな過ちを犯した指導者が二代続いたことによって、かくも簡単に風化してしまう、という構造的な欠陥にある。 打倒すべき当面の敵が共通であるからといって結束した同志が、いざ打倒してみると敵以外の共通項を見出し損ねて四分五裂、というのはそんなに珍しいことではない。「アラブの春」後のエジプトを始めとする諸国にもその典型例を認めることが出来る。民主党もそのきらいは多いにあるのだが、ことが政策、路線を巡る対立というよりは、小沢一郎氏の政治手法やスタイルに関する好き嫌いを巡っての対立、という色彩が濃厚で、ために政策手法の差異はあたかも後付けの理屈、という観を呈している。 ひところ選挙の公約、というのは守られないものの代名詞とされたものだ。だから、タテマエ論議を別にすれば、額面通りマニフェストなるものが実施される、すべきだ、と本気で考えていた人はほとんどいないだろう。だから、あれはダメ、これもダメ、はあるにしても、一体核心部分(余り好きな表現ではないが「きも」の部分)はどれか、という認識の問題になる。そこがぶれてしまったのでは、鷺を鴉といいくるめるくらいは雑作もない官僚作文に絡めとられてしまうのは見え見えだといってよい。八ツ場ダム建設の必然性などという国交省の作文をいまさら振りかざしているようではお里が知れた。 #
by akirairiyama
| 2011-12-22 16:11
2011年 12月 20日
相前後して、二人の指導者の訃報が伝えられた。一人は善と希望を象徴し、今一人は悪と破壊の代名詞とも言われる。チェコのバツラーフ・ハベル大統領と北朝鮮の金正日総書記だ。
1989年の「ビロード革命」はいまや歴史上の出来事になってしまった。しかし、圧倒的な支配力を誇っていた旧ソビエトに、敢然と非暴力路線で立ち向かった「市民フォーラム」と劇作家のその指導者は、何よりもその道徳的な高潔さと、志の高さにおいて、人類の良心の生き証人とも言うべき存在であった。中央ヨーロッパで、たまたま同時代に「民主化」プロジェクトのいくつかに関わるという縁もあって、氏の馨喙に接する機会があった筆者にとっては、ことの他忘れ難い存在である。猛烈なヘビースモーカーであると同時に、決して円満な人格の持ち主という訳ではなく、あちこちで氏の性格と発言は摩擦音をもたらした。しかし、彼は決してそれを糊塗することなく、天衣無縫とも言うべき態度に終始。国民もまたそんな彼を愛した。民主化運動のもう一方の立役者であった「連帯」のワレサ氏が典型的な「労働者」であったのに比して、ハベル氏は善かれ悪しかれ骨の髄まで「インテリ」だった。 かたやご存知金正日氏。世襲制の社会主義国家、先軍政治、瀬戸際外交に独裁政治個人崇拝と、およそ民主主義でないものならばなんでもあり、というエニグマ像が世界の舞台に現われて久しい。彼の言動について、その真意を推し量ったり、予測することはほとんど不可能に近い。さてこそ、こうもあろうか、こうではないか、と評論推測する人びとのメシのタネになっている訳で、ことほど左様に合理的推論の枠を超えた存在だ。行動や発言の意図が理解出来ないし、仮に理解出来たとして、なぜその意図を実現するためにそのような行動パターンになるのか、因果関係が全く理解を超える。とはいえ、全くの狂人で理性的判断とは無縁だ、ということになっては流石に困るから、最低限の合理性を備えた選択をしているのだろう、という仮定の下に手探りをしている、というに近いのではないか。もっともこれは金正日氏の専売特許ではなく、イランのアフマディネジャド大統領の言動についても多かれ少なかれあてはまることではある。 善と希望の象徴よりは、悪と破壊の代名詞の方が衆目を集め易いのは残念ながら事実だ。ひとつには善と希望の方は反応が予測しうるのに、もう一方はそれが出来ない、言語体系が異なる、ということにもよるのだろう。未知なるものに惹かれるのは人間の本性だが、将軍様や大将様はごめん被りたい。 #
by akirairiyama
| 2011-12-20 14:21
2011年 12月 18日
野田首相の「収束宣言」は、一体誰に何を伝えようとしたのか。民主党歴代首相のご発言には首を傾げたくなるものが多かったが、今回のそれは中でもひときわ異彩を放っているというべきだろう。
第一に原子炉は「冷温停止状態」だというが、その実原子炉内で何が起こっているのか、現状はどうなのか誰も知らない。誰も知らないということを皆が知っている。にも拘らず冷温停止「状態」だなどという子供だましの様なコトバまで発明して、一体どんな情報を伝えたかったのか。追加的な放射性物質の周辺環境への拡散がなくなった、とでもいうのなら解らないではない。が、大気、土壌、地下水、海水への拡散は依然として続き、その程度さえ明らかにされていない。要するに今日は昨日と何の変わりもないし、明日も今日と何の変わりもない。それがどうして「収束」なのか。 第二に居住に適さない危険地帯だからという理由で、住居から退去させられた人々が、事故「収束」によって帰郷出来る可能性が出てきた、あるいはメドが立った、というのならこれは朗報だ。しかし、何を以て「危険」と見なすかという基準についてさえ曖昧模糊としている上に、除染の計画や規模も判然としていない、というのでは、一日千秋の思いで帰宅を待ちわびている人々にとっては、何らの付加価値もない意味不明の情報がまた一つ増えた、というだけの話に過ぎない。 要するに、国民にとっても、被災者にとっても、今回の首相の宣言によってもたらされた情報の付加価値はゼロだ。そんな馬鹿馬鹿しい「宣言」は誰に何を伝えるためのものだったのか。現政権が事故の推移について極めて楽観的な立場をとっている、ということを内外に明らかにしようとした、というのなら、(その当否と効用は別にして)理解出来なくもない。さらに、お役所を中心とした責任ある立場の人々が、自らの事故後の対応を自己評価して、そこそこよくやっている、ことは穏便に推移している、と考えていることを伝えたかった、というのも(再びその当否は別にすれば)解り易い。いくら何でも国民世論や理解力を甘く見過ぎているのでは、と訝しむ向きもおありだろう。しかし、お役所に度し難く存在する「計画通り大きな齟齬なく」実行することに対する病的なまでのこだわりを理解すれば、霞ヶ関の常識は世間の非常識、というほんの一例に過ぎないのかもしれない。公表された工程表、そのステップ2の年内実施は至上命題だと考える人がいても不思議はないからだ。 中には、新政権がどこまで霞ヶ関の論理に洗脳されたか、踏み絵のつもりでやらせてみたら丸乗りして慌てている、という見方をする人さえいる。まさか、ね。 #
by akirairiyama
| 2011-12-18 01:14
2011年 12月 16日
司法試験に合格し、司法修習を終えた弁護士志望者のうち約2割(400人)が弁護士登録をしなかった。その理由は「弁護士が増え過ぎて仕事がない」ので、弁護士会や日弁連に入るのに必要な数万円から数十万円、さらには毎月数万円の会費が払えないのだという。(23.12.16朝日朝刊1面及び37面)法曹の絶対数が不足するからと、鳴り物入りで法科大学院制度を導入したのが7年前の平成16年だ。その当時は、平成22年には司法試験合格者は3千人を予定。それに対して文科省や大学はそれでは不足だ、9千人規模で考えるべきだ、と主張していたのは記憶に新しい。
3千人はおろか、2千人弱の司法修習卒業者でこの始末だ。文科省と大学の甘い見通しに踊らされた法曹希望者は不満の持ってゆきどころもあるまい。もっとも、自分の身の振り方というのはかかって自己責任であって、よそにその責めを求めるというのは筋違いだという意見もあるだろう。だが、税金を使って振りまいた幻想や楽観的な観測に対しては、やはり行政たるものの責任を求める声が起こっても無理はない。そもそも行政の中長期展望は当たったためしの方が少なくて、そんなものを信じるやつの方がバカであるに過ぎない。という冷めた見方もあろう。それでよいのか。 最近TPPで再び脚光を浴びるようになった日本の農政のでたらめさ。タクシーの需給を巡って、統制経済でもあるまいにいまだにいたちごっこを繰り返している台数制限。治山治水、農地開拓を巡って時代遅れになった「長期計画」を愚直に執行するお役所仕事。枚挙にいとまのないこうした愚行の数々は、本来無責任体質のお役所に、「切れば血の出る」なまなましい経済現象の舵取りをさせることの当然の帰結であるといってよい。しなくてもよい、というよりしてはいけない仕事をお役所にさせた結果、ことは単に血税の浪費であるに留まらず、被害者は死屍累々だ。それでいて誰も責任は取らない、それどころか、こうした政策につきものの関連業界団体は焼け太って、(それ自体が目的であるかと見まごうほど)天下り天国を招来しているのは周知の通りだ。 世界に冠たるシンクタンクとしての優秀な霞ヶ関官僚群、という幻想からはそろそろ醒めて良い頃ではないか。多数を相手にして、資源を公平に、かつ清潔に配分する機構としてわが国の官僚機構は極めて優れている。(途上国は言うに及ばず、多くの先進国と比較してもわが国のそれは卓越しているといって良い。)それ自体得難いことなののだから、ここはそこに留まって頂くしかない。出来もしないこと、させてはいけないことを一つでも多く官僚の手から奪い取り、いかに民の手に委ねるか、というのが真の脱・官僚ということだ。 #
by akirairiyama
| 2011-12-16 10:38
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